| ◆ お不動様と不動滝 |
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国道7号線、国交省薬師山駐車場の近くにバス停がある。すぐそばに新しい鳥居があるので、そこをくぐって約50m不動明王を祀るお不動様の建物があり、さらに約30m奥に進むと高さ5~6m幅5mの不動滝が見える。お不動様の別当は松岡公憲氏で今でも6月28日近所の人たちに呼びかけお祭りをつづけている。火の神様で今泉を火事から守ることと、悪霊が今泉に入ってこないようにする守り神として信仰されている。滝は春の雪解け期には壮大で水音高く近くの山にこだまするが、今年のような渇水期の夏は水量も極端に少なくなる。 |
| ◆ 幸福の鐘 |
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薬師山頂より30m下、スギッチの頭の部分に幸福の鐘がある。北海道ニセコの山をまねしたらしい。鐘は鷹巣町時代の消防車の鐘である。願い事をするには、下の神社から順番におまいりして頂上を降りるとき鳴らすのが本当で、途中で省略、鐘だけを鳴らすのはご利益がなくなるらしい。 |
| ◆ しだれ桜の名所 |
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昨年6月20日、約150本のすだれ桜を植樹しました。スキー場米代川沿い斜面に300mのラインを3本、切符売り場の横と右側斜面に約300mのライン2本、延べ1500mの植樹です。春には多分何本かは咲くだろうと期待し幸福の鐘に祈願した。 市営薬師山スキー場は、今泉自治会と指定管理協定を結び経費の節約と、夏場の事業創設を目指してニュースポーツのイベントに場所を提供したい。これから整備にはまだかなりの経費が必要と思う。知恵を絞って指定管理者のモデルになりたい。 |
| ◆ 薬師山 法華の石碑 |
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薬師山頂に法華教の石碑がある。明治の初め廃仏毀釈が行われたとき急激に信者を伸ばしたのが法華経であり、蟹沢にお寺がある。見晴らしのよい高い山の山頂に信者たちが石碑を奉納建立した。蟹沢の桜庭、今泉の成田、などの名前がある。今はおまいりする人が少なくなったので、西側に傾いていてもなおす人は居ないようだ。 |
| ◆ 薬師山 |
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薬師山は海抜187m、登山口は国道7号線スキー場入り口、鳥越食堂、薬師堂の横から登る。ドコモのアンテナをすぎると、圧雪車の格納庫があり落葉樹の稜線をたどるとゆっくり歩いて30分で頂上に至る。展望は非常によく、合川、森吉、森吉山。飛行場、アクセス道、鷹巣。米代川、田代方面がよく見える。残念なのは、薬師に登れば能代の海が見えるといわれていたが、西側能代方面の木が伸びて見えなくなった。山頂を中心として東は北秋田市で、北、西、南は能代市になった。昭和30年までは七座村だった。 |
| ◆ 薬師堂 |
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薬師山の登山口に小さな祠薬師堂があり石仏の薬師様が安置している。うらには享保12年[1728年]本願主、秋田郡比内糠沢村、宗心。祠の中に補修したあとがあり昭和14年3月12日仲村福松[29歳]とある。このお堂は一般に目の神様として信仰され、穴の開いた石を持参して目の病気全快祈願した。麻生の薬師山高岳寺は浅利氏時代、大館の玉林寺により曹洞宗に改宗されたが、その前は密教寺院で薬師山にあった。9代を経て現在地に開山した。しかし薬師堂の跡かはまだわからない。寛永[1624年]年代のことである。 |
| ◆ 牛神社 |
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昭和26年10月建立, 今泉は牛の飼育が多く、産牛組合組合長、簾内多蔵氏の功績が大きく九州阿蘇山より導入した。あかベコ、朝鮮牛で役牛として農耕用に飼育された。馬の神社相善様「馬頭観音」を祭る神社はどこにでもあるが牛の神社は珍しい。 |
| ◆ 三界霊の碑 |
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明治33年10月大館、鷹巣間鉄道開通。よく明治34年11月鷹巣、東能代間開通。鷹巣、二ツ井間は、トンネルが4つもあり困難を極めたようだ。ここの工事で他界した人の霊を慰め安らかに眠るよう碑を建立した。ただ今ある場所はまえの場所より移動したらしくスキー場。鳥越食堂から7号線二ツ井方面のおりくちにある。現在の前山駅は昭和4年8月前山信号所としてスタート、昭和26年3月駅に昇格した。しかし、少子化の波をまともに受け、利用者減、昭和47年4月1日無人駅となった。 |
| ◆ 市営薬市山スキー場が面白い |
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国道7号線鷹巣から二ツ井に向かう途中の郡境にある、薬師山スキー場が注目を浴びている。海抜187メートルの小さなスキー場に何かが起きている。 来年の秋田国体、巨大スギッチ{120×100}の絵がユウモラスで見る人を楽しませてくれる。8月5日薬師山登山を計画したら約40名もの市民が参加し、秋にはもう一度計画してくれと要望された。簡単に登山ができることと薬師山周辺の歴史に興味をもってくれたようです。 スキー場で楽しむのは冬だけではありません。春からお盆まで毎日のようにワラビとりの人が見られました。今中腹でシロ、ピンク、アカのコスモスが咲いています。まもなくヒマワリも咲くでしょう。スキー場裏の駐車場には、アスカの地上絵を真似し、スギッチパート2の絵{60×50}を描きました。7号線南側の駐車場から見てください。 薬師山は戊辰の役の古戦場です。慶応4年1868年[138年前]8月27日昼ごろ、坊沢に本陣を置いた南部軍が前山をとおり今泉方面から佐吉山{クロカンコース}に向かった。一方荷上場に本陣を置いた秋田軍は小繋を通り大平山小繋沢を挟んで戦いが始まった。この戦いで南部軍に戦死者が出て敗走するとき今泉に放火し{28戸焼失?}逃げた。薬師山の戦いで秋田軍が始めて南部軍に勝利した。これは官軍として九州から援軍が来たことによる。前山と坊沢の間深沢で九州佐賀の砲兵隊長村山又兵衛が戦死し二ツ井の清徳寺に他の場所で戦死した8人とともに埋葬されている。そのとき村山又兵衛47歳であった。 |
| ◆ 今泉の生いたち |
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今泉村が資料に出てくるのは1601年(秋田実季分権帳)。今から約400年前頃と推測される。 1781年(天明元年)戸数44戸、人数198人
1868年(慶応4年/明治元年)戸数54戸、人数244人
戊辰の役(戊辰戦争)1868年8月27日南部軍は今泉から前山に逃げるとき放火し28戸焼失、今泉村の約半分が焼けたことになる。このときの補償として明治2年藩から払い下げ一戸当たり杉元本5本が無料30本が有料であった。 七座村の誕生は明治21年麻生、小繋、今泉、前山、と黒沢の5村で発足した。 今泉の水田開発に大切な水源は成田堤、喜平治堤、仲村堤、そのほか、新堤、龍鼻堤などがあり、水田開きは、幕末1842年(天保14年)秋田檜山の渡部斧松の功績が大きい。また開墾は藤原氏の手により新町の人たちが入植した。昭和22年の洪水で高台の新町に全戸移動したのである。今泉草創期江戸時代中期は、下町が中心で上町は戸数はわずかであった。今泉川は徒わたりで神明社を建立したとき下町から見て、川の向かい、向町と呼んだ。 |