今泉村が資料に出てくるのは1601年(秋田実季分権帳)。今から約400年前頃と推測される。
1781年(天明元年)戸数44戸、人数198人
1868年(慶応4年/明治元年)戸数54戸、人数244人
戊辰の役(戊辰戦争)1868年8月27日南部軍は今泉から前山に逃げるとき放火し28戸焼失、今泉村の約半分が焼けたことになる。このときの補償として明治2年藩から払い下げ一戸当たり杉元本5本が無料30本が有料であった。
七座村の誕生は明治21年麻生、小繋、今泉、前山、と黒沢の5村で発足した。
今泉の水田開発に大切な水源は成田堤、喜平治堤、仲村堤、そのほか、新堤、龍鼻堤などがあり、水田開きは、幕末1842年(天保14年)秋田檜山の渡部斧松の功績が大きい。また開墾は藤原氏の手により新町の人たちが入植した。昭和22年の洪水で高台の新町に全戸移動したのである。今泉草創期江戸時代中期は、下町が中心で上町は戸数はわずかであった。今泉川は徒わたりで神明社を建立したとき下町から見て、川の向かい、向町と呼んだ。
羽州街道は明治6年、県知事の判断で院内より矢立峠まで二等道路と決められ、明治18年には国道41号線と表示された。大正9年4月国道41号は国道5号に表示され、昭和27年一級国道7号と指定された。さらに40年一級、二級の区別なく一般国道7号線が誕生した。
集落の中を通った7号線、昭和38年~41年にバイパス、今の7号線が完成し、いまは竜ケ鼻トンネルのバイパス完成している。七座村の杉は豊臣秀吉時代から有名で、大阪、江戸に運送された。杉はすべて米代川を筏で下り能代に運ばれた。特に明治、大正、昭和20年代までは大量に集材され筏流しも忘れられない景色であった。しかし昭和30年代に入りトラック運送が盛んになると同時に、米代川の海運は衰退した。明治34年奥羽線(鷹巣能代間)開通した。
昭和40年代に入り、道路の時代、車の時代になった。国道7号線の難所、小繋薬師山峠の旧道路跡を記憶している人はもう少ない。1970年代奥羽線の前山-二ツ井間は複線になり、四つあったトンネルが一つになった。
交通機関は時代とともに変わり平成10年大館能代空港が開通した。国道7号線からのアクセス道路は今泉からできた。
昔から、世界で恐ろしいものの順番が、地震雷火事親父といわれている。戊辰の役で敗走する南部軍が放火、27戸焼失すると、記録にある。明治23年5月20戸焼失、大正8年2月26日、32戸焼失。かやぶき、わらぶき、の家だったのですぐ延焼した。昭和25年6月1日、鷹巣の大火、705世帯、145非住宅の大火災だった。昭和44年3月18日、七座小学校全焼し、その後坊沢小学校と合併し西小学校の誕生となった。
昭和30年10月19日、七座山地震M5,7があった。午前10時40分、天候晴れ、七座中学校1年は2時間目英語の授業が始まってすぐのときだった。ごおという地鳴りと同時にグラグラとすごい揺れが来た。先生は足お開き手お黒板につきやっとたっている状態だった。女子は机の下にもぐりギャアギャア泣き出した。男は我先にと廊下に飛び出し階段おり外に走り出した。小学生も含め全校の生徒が外に逃げグランドの堤防に並んだ。地鳴りとグラグラが同時なので、震源地が近いと予想した。